最後のナイチンゲール

たまたま早く帰れたので、「終戦記念特別ドラマ 最後のナイチンゲール」というのを観た。


沖縄戦
ひしひしと感じたことはただ一つ。

このドラマの作り手にとって、それはもはや完全な過去の遺物であって、現在の「わたしたち」とは連続していないんだ、ということ――
言い換えれば、テレビの人たちが捉えるわれわれ視聴者=日本人の世論は、そう捉えているということ。

ちょうど戦後の少年たちが鞍馬天狗の正義に見入り、江戸のすき者たちが弁慶の勧進帳の忠を論じたように、
平成の世のテレビにおいて、沖縄戦はすでに劇空間のための装置だ。
つまり古典になったんだな、と。

それはけっして、悪いことではない。
よく、「風化させてはいけない」と聞くけれど、人が歴史を生き生きと伝えるのは、劇にしたてていろいろ味付けを変えていく、昔からこの方法ひとつだった。


女性礼賛、生命礼賛というある種原始的なテーマは(ドラマ中の男、なさけなさすぎ)、ちょうど黄門様を見て胸がすかっとするように、俺たちを安心させる。



「人は欲する処に、欲する意匠を見る。」(小林秀雄

俺も誰もみんな、見たいようにしか対象を見られない。
ただそれだけのことなんだけれどね。